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京都祇園祭の山鉾32基のひとつである「芦刈山」は、応仁の乱以前には四条猪熊と錦小路東洞院の2か所から出ており、当町からは「住吉山」を出していましたが、乱後は当町のみ「芦刈山」を出すようになり、現在に至っています。
町名も「芦刈山」を出すことにちなみます。


所在地 京都市下京区綾小路通西洞院西入ル 芦刈山町

京都は、日本のまほろば、祇園祭は、京都の華、
われわれの芦刈山は、その祇園祭に登場する、渋いけれども、雅な山です。
その芦刈山町に住んで早や三年、私はいつのまにか千年の歴史をさかのぼり、
神話や物語の世界に遊んで、飽きることがありません。
時に、地球がこの芦刈山を中心に回っているように感じる、
不思議な体験を楽しんでいます。

    
芦刈山町住人 山折 哲雄(平成15年)


「芦刈山」の趣向は世阿弥作と言われる謡曲「芦刈」に基づき、《故あって妻と離ればなれになった男が難波の浦で芦を刈る姿》を現しています。謡曲の筋書きは、この夫婦が3年ぶりに再会を果たして、和歌を詠み合い、相携えてめでたく都に戻るというものです。

その時に読み交わした和歌


謡曲「芦刈」のあらすじ
夫::君なくて、あしかりけりと思ふにも、
      いとど難波の浦は住み憂き」
(君がいなくなって、悪いことをした、別離などしなければよかったと思うにつけても、芦を刈って暮らす、難波の浦は住みづらいことだ)

「あしからじ、よからんとてぞ別れにし、
         なにか難波の浦は住み憂き」
(良かれと思ったからこそ、私もあなたとお別れしたのです。難波の浦が住みづらいなどと、おっしゃってはいけません)
あらすじはこちらから↑

芦刈山の起源
 応仁の乱(1467〜1477)前
1000年以上の歴史がある祇園御霊会の中で、山や鉾の記録が現れるのが700年前の室町時代ごろからです。「祇園本縁録」には、嘉吉元年(1441)に足利六代将軍義教(よしのり)が、しばらく絶えていた祇園会の復興を促して山鉾等を創建もしくは再興させたとあります。そして「祇園社記」によれば「応仁の乱前分」として当時の鉾の数14基、山の数49基が記されていますが、その中に「すみよし山 綾小路、油小路と西洞院の間」とあり、現在の芦刈山町に当たる場所に「住吉山」という今は現存しない山があったことが分かります。また「あしかり山 四条猪熊」、「あしかり山 錦小路東洞院」との記述もあり、現在は山の建たない通りに「あしかり山」という山が2か所あったということになります。
応仁の乱後の再興
「応仁の乱後再興」のくだりには「綾小路、西洞院と油小路の間 あしかり山手かき」とあり、現在の芦刈山は少なくとも明応5年(1496)の山鉾再興の時に創建されたと推測されます。また最初の鬮取り式が行われたのが明応9年(1500)で、「二十三番 あしかり山 綾小路と西洞院の間」とあり、37基で復興した山鉾の内、さきの祭り27基の第23番目であったことが分かります。

絵に見る芦刈山

昔から洛中洛外図や祇園祭礼図屏風などに山鉾巡行図の様子が描かれてきましたが、代表的な鉾や曳き山などはよく登場するものの、その中に芦刈山の姿を見つけることは滅多にありません。ここにご紹介する絵は、そのように数少ない芦刈山の姿を描いた、現在確認できるもののすべてです。あと粟田の青蓮院にあったとされる杉戸絵は、いまのところゆくえ知れずで確認できていません。

屏風絵その他より(江戸〜明治)

宝暦7年(1756)
「祇園御霊会細記」

「花洛細見圖」
(佛教大学図書館所蔵)

江戸初期絵巻物
延宝年間(1673〜1680)
「祇園御本地」
(京都府立総合資料館蔵)
江戸初期屏風絵
「祇園祭礼図屏風」より
(サントリー美術館蔵)
江戸末期屏風絵
明治の錦絵
明治27年
「京都祇園会絵図」
 山鉾行列番付より(江戸〜明治)

年代不詳

明治25年

明治37年

明治42年
 イラストより(昭和)
松田 元 氏
西脇 友一 氏

出典

●謡曲「芦刈」は平安時代の歌物語「大和物語」に基づくといわれています。しかし「大和物語」では乳母として都にあがった妻は貴人の後妻となり、芦刈人足となった夫とつかのまの再会を果たして着物を与えますが、すでに他人の妻の身、男を哀れみながらも都に帰ってしまいます。ほかに芦刈説話を扱った古典もいずれも悲しい結末で、能楽「芦刈」だけがハッピーエンドなのです。

 謡曲「芦刈」は一般に男物狂(狂乱物)と呼ばれ、二百番近い能の中で唯一、夫婦の心の触れ合いを賛美した演目で、夫婦の愛情を肯定した異色作です。
 しかし芦刈山の御神体が老翁の姿であるのに対して、謡曲の日下左衛門は「若き男」と書かれています。また謡曲の季節は春ですが、芦刈山の趣向は秋の風情を表していて、「芦刈」は秋の季語であるといった違いもあります。
  
 芦刈山の所在地「綾小路通西洞院西入ル」には、応仁の乱前には「住吉山」という山が建っていたという記録があります。「住吉山」がどのような山であったかはまったく分かりませんが、神功皇后に関する航海の神か、和歌の明神を題材にした山であったと思われます。一説によると音阿弥(おんあみ)作の「住吉」という謡曲が室町時代には流行したそうですが、現行曲にはないため確認できません。
  
 しかし結婚式の謡(うたい)で「高砂やこの浦舟に帆をあげて」で知られる謡曲「高砂」があります。住吉の尉(じょう)と高砂の姥(うば)が、海山千里を隔てて仲むつまじいことをテーマにした曲ですが、ここに登場する住吉の尉は住吉明神の化身です。芦刈山の老翁の顔は、実はこの住吉明神の尉面にとても似ているのです。確証はありませんが、応仁の乱後の山鉾復興に際して、「住吉山」の御神体が「芦刈山」に受け継がれた可能性も否定できません。しかも共に和歌と夫婦仲を称えるというテーマは共通しています。


(以下の出典はそれぞれ同じ素材を扱っていて多少の異同がありますが、ここでは大きな違いだけを簡単に書き記します)

●「大和物語」第148段「蘆刈」、天暦5年(951)ごろ
(謡曲「芦刈」の原典といわれていますが、都に上がった妻は宮仕え先で貴人の妻となってしまい、元の夫と再会後、自分の着物を残して去ってしまいます)

●「拾遺和歌集」巻第9 雑歌、寛弘2〜4(1005〜1007)ごろ成立(「大和物語」のダイジェスト

●「今昔物語集」巻30第5話「身貧しき男の去りたる妻、摂津の守の妻となる話」(男が落ちぶれたのは前世の報いであり、芦を刈る哀れな姿がリアルに表現されています)

●「宝物集」巻第3、八苦の1つ「求不得苦」(求めるものの得られない苦しみ)の一例として引用(「大和物語」のダイジェスト)

●「源平盛衰記」巻36、阿巻、「難波ノ浦ノ賤ノ夫婦」
(夫は貧しい人に物を施す慈悲心の深い妻を邪険に思って追い出したあげく、芦を刈る身に落ちぶれます)

●「神道集」巻7の43「芦刈明神の事」
(貴人の妻となった女が芦を刈る元の夫に再会、2人は海に飛び込み、難波の浦の芦刈明神となります。男の本地は文殊師利菩薩、女は如意輪観音として)

●谷崎潤一郎「蘆刈」(「吉野葛・蘆刈」岩波文庫)
(「君なくて」の和歌をモチーフに、淀川の芦の生い茂る中州を舞台に繰り広げられる夢幻能形式の物語。谷崎らしい傑作!)

●海音寺潮五郎「蘆刈」(「王朝」角川文庫)(「今昔物語集」に基づく翻案。芦刈説話と大盗賊の話を合体させています)

●杉本苑子「蘆刈りの唄」(「今昔物語ふぁんたじあ」講談社文庫)
(不器用な宮中楽人が、見初めた下女を借金をしてまで買い上げて妻にするものの、楽器盗難の嫌疑をかけられ楽所を追放される。生活は困窮し、妻は大納言邸へ奉公に。その後は「大和物語」や「今昔物語」と同様です)

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